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殤公 (衛)

邾の君主たちと夷儀(衛の地)で会合し、斉を攻撃した。その秋、斉との和約が成立し、諸侯は重丘で盟を結んだ。そのころ、衛の先君である献公が夷儀に入った。 殤公12年(前547年)、先君の献公が何度か甯喜に帰国を求めたため、2月に甯喜と右宰の穀は政敵である孫一族を攻撃し、殤公と太子の角を殺して献公を迎えた。

Related Words

殤公 (宋)

殤公(しょうこう、? - 紀元前710年)は、春秋時代の宋の君主(在位前720年 - 前710年)。姓は子、名は與夷。宣公の子。紀元前720年、叔父の穆公の後をうけて宋国の君主となった。 紀元前719年、魯の隠公と清で会合した。衛の州吁の主導により宋・衛・陳・蔡の連合軍が鄭を攻撃した。紀元前718

殤帝

殤帝(しょうてい)は、中国の皇帝に贈られた諡号の一つ。「殤」は早死にを意味する字で、幼くして即位させられ、ほどなくして死んだ皇帝に付けられた。 後漢の孝殤皇帝(劉隆、在位106年) 唐の殤皇帝(李重茂、在位710年) 南漢の殤皇帝(劉玢) 同諡号廟号一覧 幼君

殤叔

殤叔(しょうしゅく、生年不詳 - 紀元前781年)は、中国の西周時代の晋の君主。姓は姫、名は知られていない。 晋の献侯の子として生まれた。紀元前785年、兄の穆侯が死去すると、殤叔が後を嗣いで晋侯として即位した。このため穆侯の太子仇が出奔した。紀元前781年、太子仇がその一党を率いて殤

殤帝 (漢)

殤帝(しょうてい)は、後漢の第5代皇帝。 後漢の第4代皇帝和帝は多くの皇子をもうけたが、いずれも夭折していた。宦官・外戚による謀殺の疑惑を抱いた和帝は、皇子を民間で養育することとした。 元興元年12月(106年2月)、和帝が崩御した際、長男の劉勝は病気を理由に即位が見送られ、劉隆が宮廷に迎えられて

殤帝 (唐)

贈られなかった初の皇帝でもある。 初めは北海王に封じられ、後に温王に転封となった。710年に父の中宗が継母の韋皇后と異母姉の安楽公主の母娘に毒殺された後、韋后によって皇位に即けられた。韋后は武則天同様に王朝の簒奪を狙っており(武韋の禍)、殤帝は禅譲のための傀儡として即位させられたに等しかった。

定公 (衛)

ゅう)を使者に立てて孫林父を衛に送り届けさせた。定公は断ろうとしたが、夫人の定姜に諫められたため、孫林父を遂に赦した。9月、定公は病にかかったため、孔烝鉏(孔成子)と甯殖(甯恵子)に命じて愛妾である敬姒(けいじ)との間に生まれた衎(かん)を太子に立てさせた。10月、定公が薨去し、太子の衎が立って衛君(献公)となる。

桓公 (衛)

荘公23年(前735年)、父の荘公が卒去したため、太子である姫完(以降は桓公と表記)が立った。 桓公2年(前733年)、桓公は弟の州吁(しゅうく)が驕奢だったため、彼を排斥した。 桓公13年(前722年)10月、魯の恵公の改葬が営まれるため、桓公は魯に赴いてその葬儀に参列した。この年、鄭において内紛

成公 (衛)

成公9年(前626年)、衛が晋に参朝しなかったとの理由で、晋の襄公は衛を攻撃した。これに対し衛も晋へ攻撃を仕掛けた。 成公11年(前624年)1月、魯の叔孫得臣(叔孫荘叔)が晋・宋・陳・衛・鄭とともに沈を攻撃し、沈は潰滅した。成公は陳へ赴き、晋と和平が成立したことの礼を述べた。 成公12年(前623年)、成公は晋の襄公に参朝

恵公 (衛)

していたことを怨み、恵公を攻撃し、太子伋の弟である黔牟を衛君に立てた。攻撃された恵公は斉へ出奔した。 その8年後(前688年)6月、恵公は斉の襄公の援けを得て諸侯軍とともに黔牟を撃ち、左公子洩と右公子職を誅殺してふたたび衛に返り咲いた。 恵公25年(前675年)、恵公は周が黔牟をかくまっていることを

文公 (衛)

文公(ぶんこう、紀元前?年 - 紀元前635年)は、衛の第21代君主。黔牟の弟の昭伯(頑)の子で戴公の弟。 昭伯と宣姜の子として生まれる。 初めのころ、姫燬は衛が内乱ばかりなので母の実家である斉へ疎開していた。 懿公9年(前660年)12月、懿公が翟(てき:狄)の侵攻を受けて戦死すると、都の朝歌を

霊公 (衛)

景公は救援に向かい、五鹿(趙の邑)を包囲した。秋、霊公と斉の景公はともに晋を攻撃した。 霊公42年(前493年)、霊公は外遊し、子の郢(えい)に車を馭させた。郢は霊公の末子で、字(あざな)を子南といった。このとき霊公が郢に「そなたを太子にするつもりだ」と告げたが、郢は断った。その4月に霊公が薨去し、

悼公 (衛)

(公文懿子)が反対した。そこで衛軍は諸侯軍と戦ったが敗北し、公孫弥牟が門を開けて出公を入れようとした。しかし、出公は伏兵を恐れて結局衛に入ることはなかった。その後、悼公は公孫弥牟の補佐で政治を行い、出公のいる城鉏(じょうそ)を越に与えた。 悼公5年(前451年)、悼公が薨去し、子の弗が立って衛君(敬公)となった。

戴公 (衛)

戴公(たいこう、紀元前?年 - 紀元前660年)は、衛の第20代君主。黔牟の弟の昭伯(頑)の子。 昭伯と宣姜の子として生まれる。 懿公9年(前660年)12月、懿公が翟(てき:狄)の侵攻を受けて戦死すると、都の朝歌を放棄した民衆730人は共・滕から逃れてきた民衆と合流し、計5千人を引き連れて曹(現

武公 (衛)

武公42年(前771年)、周の幽王が西の異民族である犬戎に殺される事件が起きた。そこで姫和は兵を率いて周の救援に向かい、犬戎を討平した。周の平王はその功により姫和を侯爵から公爵へ昇格させた。 武公55年(前758年)、姫和は卒去し、武公と諡され、子の姫揚が立った。 司馬遷『史記』(衛康叔世家第七)

献公 (衛)

後、孫林父の子である孫蒯は父の代わりに献公と宴飲した。このとき献公は大師(音楽を掌る大夫)に『巧言』(小雅)の終章を歌わせようとしたが、大師は相手に悪いと辞退した。そこで楽人曹(師曹)が名乗りを上げて『巧言』の終章を歌いあげた。孫蒯は恐れて父にこの事を報告した。4月、怒った孫林父は献公を攻撃し、献公

出公 (衛)

れて晋にいたので、霊公は代わりに子の郢(えい)を太子にしようとしたが断られ、その4月に薨去してしまった。霊公夫人の南子はふたたび郢に太子になるよう頼んだが、やはり断られた。そこで郢は蒯聵の子である輒を勧めたため、輒が立って衛公(以降は出公と表記)となった。6月、晋の趙鞅(趙簡子)は蒯聵を衛に入れよ

慎公 (衛)

慎公(しんこう、生年不詳 - 紀元前383年)は、戦国時代の衛の君主。公子適の子で、敬公の孫にあたる。懐公を殺害して自ら即位した。紀元前383年、死去した。在位32年。 『史記』衛康叔世家 表示 編集

昭公 (衛)

敬公の子として生まれる。 敬公19年(前432年)、敬公が薨去したため、子の糾(きゅう)が立って衛君(以降は昭公と表記)となる。 当時の中国は三晋(韓、魏、趙)が強盛で、衛は小国だった。そのため、衛は趙に付属することとなった。 昭公6年(前426年)、子の亶(たん)が昭公を殺して自ら立ち、衛君(懐公)となった。

声公 (衛)

声公(せいこう、生年不詳 - 紀元前372年)は、戦国時代の衛の君主。名は訓、あるいは馴(『史記索隠』による。また索隠の引く『系本』によると、聖公馳と作るともいう)。慎公の子。紀元前383年、慎公が死去すると、後を嗣いで衛国の君主となった。紀元前372年、死去した。在位11年。 『史記』衛康叔世家